No.64 | 石鎚編 ←No63安曇編・No65佐渡編→ | ||||||
旅行期間 | 1989年4月28日〜1989年5月7日 | 旅行日数:10日間 | |||||
総走行距離 | 676km | ||||||
走破市町村 | 50 | ||||||
当時の年齢 | 25歳 | ||||||
同行者 | F島・A野・S井・K藤・W辺 | 使用自転車:WR | |||||
総費用 | 86,970円 | 当時の年齢:25歳 | |||||
初日 | 1989年4月28日 | ||||||
移動区間 | 上田市上田寮〜夜行急行・信濃 | ||||||
2日目 | 1989年4月29日 | ||||||
輪行区間 | JR篠ノ井駅→JR芦屋駅 | ||||||
走行区間 | 芦屋駅〜山城町定福寺YH | ||||||
走行距離 | 118km | ||||||
走破市町村 | 18(石井,上板,吉野,鴨島,土成,市場,川島,山川,阿波,脇,穴吹,貞光,半田,美馬,三野,三加茂,井川,三好) | ||||||
累計数 | 2,168 | ||||||
当初はA野と沖縄に行こうという話で盛り上がっていた。しかし飛行機も予約できなかったことやA野が5日には帰ると言うこと、S井とF原が北陸を回るので後半で合流しようと誘われたこと、昨夏越飛編で北陸方面に行ってしまったことなどを総合的に評価して四国の旅になったのであった。 元号も昭和から平成に変わり、住まいも山幡荘から上田寮に移動した。旅の初日は例によって仕事を終え、長野から通勤していた事務の女の子に夕食の引き替えで篠ノ井駅まで送ってもらい出発である。 大阪まで行く夜行急行を名古屋で始発のこだまに乗り換え芦屋で下車。変なぶつけ方をしたのか後変速機の調子が悪い。時間がないので神戸青木港から徳島港に渡り、徳島市内で変速機を交換する。それから吉野川を何回も渡って両側の自治体を虱潰しに走破して定福寺YHに到着する。明日の「修行」を2人分申し込んで、今日の「修行」帰りの人から話を聞いたり、明日同行する人と友好を深める。また明日はTVの取材が入ると言うことで変に盛り上がったりもする。 なお、ここまで単独行であるが、これから次々と複雑な様相を示す旅になる。 |
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3日目 | 1989年4月30日 | ||||||
走行区間 | 山城町定福寺YH〜山城町定福寺YH | ||||||
走行距離 | 98km | ||||||
走破市町村 | 2(東祖谷山,西祖谷山) | ||||||
累計数 | 2,170 | ||||||
まだ私が眠っている頃、夜行快速列車が豊永駅に泊まり、F島が降り立つ。駅で仮眠をした後、朝食の時間が終わったYHに顔を出す。「修行」のスタートである。 「修行」とは定福寺YHの立案した山での瞑想や史跡の訪問などの5つのメニューの事で、その中でもっとも厳しいというのが標高1130mの京柱峠を越えて祖谷渓を回って帰ってくる自転車の旅であるとYH新聞の記事で見た。そのコースには未走破自治体が2村有るから、これに参加しようと考えてF島を誘い込んでいるのである。夜行で来て寝不足のF島に過酷な先輩を持ったね、と回りから声が掛かる。 出発前に座禅を組むが、ここからカメラが入る。TBSのモーニングアイの取材らしい。そして出発。YHから直ぐに上り坂となる。キャスターの姉さんが一生懸命登っていく。私はカメラに入らないように適度な距離を置いて登っていくと急にペダルが空回りする。チェーンが外れたかな、と思ってみたらチェーンが切れている。正確にはビスが飛んでいる。昨日変速機を交換したときに詰めた処理が悪かったようだ。チェーン切がYHに有ればよいが、とせっかく稼いだ約300mぐらいの標高差を放出。幸いYHまでは全てダウンヒルである。帰り着けば連泊中のデンマーク人のサイクリストが運良く持っており、それを借りて自分でチェーンを直してみんなの追跡に入る。色々と私に運は有るようだ。YHから峠まで標高差は850mだ。 峠の少し手前で追いつくと小雨になる。追跡の軽量化のため、荷物はカメラと簡単な修理道具以外は全てYHに置いてきてしまったから合羽がない。するとTVクルーが「絵になるから」と合羽を支給してくれる。峠に到着し、雨の中を駆け下る。 かずら橋の料金もTVクルーが出してくれ、そのかわり「恐る恐る」渡る絵を取られる。工事現場の足場を歩くこと考えれば大したこと無いのだけど協力する。そのうち雨も上がり、本当に「恐る恐る」で無いと寄れない小便小僧の像にタッチして、32号線でYHに帰る。直前に酒屋で麦酒を買い込んだことは言うまでもない。この時ともに回った仲間とは関東で何回か飲み会を開く友達になった。 |
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4日目 | 1989年5月1日 | ||||||
走行区間 | 山城町定福寺YH〜面河町関門YH | ||||||
走行距離 | 152km | ||||||
走破市町村 | 6(越知,吾川,仁淀,柳谷,美川,面河) | ||||||
累計数 | 2,176 | ||||||
仲良くなった友に見送られ朝食前に出発。前夜盛り上がりすぎて寝不足である。途中のドライブインで朝食を取り、32号線を南下すれば自身3度目の高知城やはりまや橋である。それらを見たらアップダウンの激しい33号線を石鎚山の麓目指して進むことになる。 F島は2日続けての寝不足と前日の雨に打たれた体調不良で佐川で取った昼食も喉を通らない状況。もちろん走り初めても覇気がない。周辺を見渡すと耕して天まで至るような急斜面と人間の戦いの風景が広がっている。F島もガンバレと励ましながら県境を越え、黒岩から面河川沿いの県道を遡って何とか夜7時にYHへ到着し、わずか数人の宿泊者しか居ない宿で早寝を決め込むのであった。 |
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5日目 | 1989年5月2日 | ||||||
走行区間 | 面河町関門YH〜松山市第一ホテル | ||||||
走行距離 | 68km | ||||||
走破市町村 | 2(久万,砥部) | ||||||
累計数 | 2,178 | ||||||
午前中は石鎚山登山。詳細は登山記録に譲り、こちらは昼に下山してからの話を続ける。川沿いに黒岩に戻り、33号線で三坂峠を越える。F島の疲労は見るからに痛々しい。ここを越えれば松山まで下るだけだと騙し励ましながら進む。 松山に到着し、ビジネスホテルで3部屋を取ったらA野との待ち合わせ場所である道後温泉に路面電車で向かう。湯船の中で待っているとA野が到着する。湯に浸かっていると待っているのが苦にならなくて良い。湯上がりに道後温泉街で一杯やり、飲み直しに松山市街で2時まで深酒をするのでF島は休めないのであった。 |
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6日目 | 1989年5月3日 | ||||||
走行区間 | 松山市第一ホテル〜加藤汽船・はぴねす2 | ||||||
走行距離 | 169km | ||||||
走破市町村 | 15(重信,川内,丹原,小松,西条,新居浜,土居,伊予三島,川之江,仁尾,詫間,三野,多度津,宇多津,坂出) | ||||||
累計数 | 2,193 | ||||||
前夜、どんなに深酒しても朝は7時に出発し長距離ランを開始する。A野は我々を見送った後、ロープウェイで石鎚山に登ってから高松に集合することにする。 疲労回復にはビタミンCが効くと思い、果物販売所で伊予柑やボンタンなどを買ってF島に食わせるとともに自らも大量接種する。四国の高速道路は善通寺から川之江しか開通していないため愛媛県下の11号線は連休の大渋滞中である。小松町で抜かれた車を抜き返したり抜かれたりで伊予三島まで行ってしまった。国道は言葉通りの自転車並の流れである。 香川に入ればこちらも国道を離れ四国編以来となる琴弾公園を見る。詫間から丸亀の瀬戸内海沿いに多島海を見ながら進み、丸亀城に至り立派な城を見て回った後は瀬戸大橋架橋公園で1年前に開通した瀬戸大橋の勇姿を眺め、四国ステージの終わりが近いことを実感する。 この頃金沢ではS井がF原と別れて南下を開始していた。 高松でA野が合流して再度3人になり、今夜も軽く飲んで夜に高松港を出る船で大阪へ向かった。 |
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7日目 | 1989年5月4日 | ||||||
走行区間 | 宇治山田駅〜大王崎 | ||||||
輪行区間 | 北港→地下鉄弁天町駅→近鉄宇治山田駅、大王崎→上田市上田寮 | ||||||
走行距離 | 71km | ||||||
走破市町村 | 7(鳥羽,磯部,南勢,浜島,志摩,大王,阿児) | ||||||
累計数 | 2,200 | ||||||
大阪北港に早朝到着。輪行袋を担いだまま地下鉄の駅まで歩く。弁天町から本町駅に出て関東に帰るA野、F島と別れる。1人になって志摩の走破後にS井と合流するために近鉄特急で伊勢に向かう。 宇治山田駅は快晴。鳥羽を経由して磯部から神津佐に抜け260号線で浜島の港に着く。御座行きの予定の時間に遅れ、次のフェリーが出るまで優雅に海を見ながら珈琲を飲んで志摩ステージの終了を味わう。 御座港から一気に大王崎まで走る。待合せから少し遅れてそうな見込みである。燈台に登る道は大勢の観光客が居て自転車に乗ったままで走っていけない。諦めて押して歩き始めると「よう!」とS井が声をかけてくる。時計を見ると待ち合わせ時間ちょうどだ。S井も駐車場渋滞で若干遅れそうになっていたと言い、上手くかみ合ったわけだ。 2人で燈台を見学して私の自転車旅行は終了となる。再度輪行袋に入れてS井のスターレットの荷台に積み、有久寺温泉に向かう。聞けば金沢でのF原との離合も色々ドラマがあったようだが、それはここでは割愛しよう。 この夜は伊勢長島町にある港の近くの大きな木の下で野宿する。4年前の九州編で最南端の佐多岬で夜空を見ながら乾杯しようと約束していたな、時も場所も変わったが改めて乾杯だ、などと昔話に花を咲かせて夜は更けていった。 |
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8日目 | 1989年5月5日 | ||||||
移動区間 | 伊勢長島町白井車中〜菰野町御在所YH | ||||||
9日目 | 1989年5月6日 | ||||||
走行区間 | 菰野町御在所YH〜上諏訪町諏訪湖YH | ||||||
10日目 | 1989年5月7日 | ||||||
走行区間 | 上諏訪町諏訪湖YH〜上田市上田寮 | ||||||
海岸の大きな木の下で目を覚まし、K藤との合流ポイントである御在所に向かう。彼は連休中というのに大阪に業務出張しており、その帰路に合流するとS井に伝言している。人数が増えると車の空間が無くなるなるので津駅前の日通から宅急便で輪行袋を上田に送る。初宅急便は1,240円だった。 鈴鹿などで遊んでから御在所に向かうと渋滞に巻き込まれる。のろのろと動いていると自転車のW辺が話しかけてくる。お前は仕事が忙しくて参加できないと言ってなかったか、と聞くと何とか休めたから紀伊半島を回ってきたとの話し。W辺の自転車も宅急便で処分させ、3人で御在所山にロープウェイで登る。夕方のロープウェイでK藤も合流し、同宿の大勢を連れて真っ暗な展望台に夜景ツアーに出かけるなどすっかり場を仕切ってしまう。これだけバラバラに集合した4人は互いの旅行内容を聞き会って居るので仲間だと思った第3者は少なかったようだ。 後は馬込・妻籠を見て、W辺推薦の諏訪YHに泊まり上田まで帰って草笛の蕎麦で解散会を行うのであった。(次回は佐渡編) |