元同僚を追悼する | |
2024/12/15記 | |
先週の日曜日に元木更津市議であった宮木康弘氏が亡くなられたことが伝えられた。月曜日に市議会事務局から正規の訃報が届けられ昨日の14日が通夜、15日が告別式だと記されていた。今頃はきみさらづ霊園から空に立ち上っている頃であろう。 宮木氏は東日本大震災による計画停電や自粛モードが続く中の平成23年4月24日に投開票が行われた統一地方選挙で木更津市議会議員に当選された。当時の議員定数は28人で、その28番目での当選であった(参照)。 その選挙が終わった大型連休の間に会派フォーラム未来が自由民主クラブと会派羅針盤に分離することになったため(参照)、保守系の新人議員はどちらに進むべきか悩み、両会派による取り合いのような事態となったが、昭和30年以前に生まれた重城氏が自由民主クラブに、以降に生まれた宮木・永原・草刈の3氏が羅針盤に配属となり、私は平成27年4月末の任期が終わるまで彼と会派活動を一緒にすることとなった。 昭和37年9月21日生まれの宮木氏は当選当時は48歳で、私より一学年先輩であったが、一つ下の私を先輩議員として立て雑用を厭わなかったことを覚えている。会派の人数は7人と多かったが内実は2期と新人だけで構成する会派であったので「議会」を教えようとこちらも一生懸命であり、あの頃はお互いに解らないことを一緒に学んでいた頃だった。 任期の4年間の間に山形県川西町・宮城県東松島町災害ボランティア・福島県白河市:奈良県大和郡山市・兵庫県尼崎市・大阪府高槻市:熊本県玉名市・佐賀県武雄市・長崎県大村市: ![]() プライベートでも会派を組んだ夏に他会派の國吉元議員も加えて富士登山を企画し、宮木氏は当時13歳の娘さんを連れて参加された。その娘さんも今では26歳に成っているだろう。体力のない親父たちの登山に付き合ったことを今でも覚えているだろうか。 また平成26年12月13日に挙げた結婚式にも会派のメンバーとして出席していただいた。通夜の前日に結婚10周年を迎えることが何とも複雑な気持ちである。 4年の間に請西保育園問題(参照@・参照A)やそれに伴う永原議員の除籍騒動(参照)など当初から激しい議会運営の中で議員としての立ち位置を問われる場合が多く1期生には何かと大変だったことだと思う。水越市政の元では与党なのか野党なのか解らないと言われることもあったし会派の懇親会でテーマソングのように歌うのは未来に期待する「明日があるさ」であった。 その後、平成26年3月の市長選挙で現在の渡辺市長になってから執行部も与党だと認めてくれるようになったようだし、議員としても話を聞いてもらえるようになったと感じていたと思う。「明日があるさ」を歌うことも無くなった。 しかしながら世の中は上手くいかないもので、任期中に議員定数の4人削減を決めたので、平成27年春に迎えた改選は24人の椅子を争う厳しい選挙となった。真舟に住む宮木氏には隣接する請西の清水議員が勇退することが追い風になり外部では比較的楽な選挙になるだろうと想像していた。実際に前回より200票伸ばしたのであるが26位に留まり当選を果たすことが出来ず、1期の任期で市議会議員を終えることになったのである(参照)。この時点で52歳、次の選挙でも56歳とまだ若い。得票数は1,241も有ったのだから4年間は浪人生活を送っても再び我が会派に帰ってきてほしいと励ましたことも懐かしい思い出である。因みにその票数を今期の木更津議会に当てはめると23位で当選範囲になる(参照)。木更津市の有権者は増えているのにボーダーラインが下がり、彼より少ない票数の議員が誕生することには、制度とはいえども何とも割り切れない感じである。 その後に宮木氏は工期の厳しい工事現場で睡眠時間を削って無理をしたことが引き金となって心臓の調子を悪くして入院してペースメーカーを装着し、退院したものの体力に自信がないと言って市議会へ再挑戦することは無かった。宮木氏の次となる27位で浪人を経験することになる鶴岡大治さんは次回の選挙で復帰を果たし、そして議長を経験することに成ったと考えると宮木氏も再挑戦して当選を重ねてきたら議会を共に引っ張っていく中心的な一人に成っただろうと思う。誠に残念である。 議会には来なくても地域の一員として活躍を続け、お祭りや木更津ばやし保存会では中心になって活躍している姿を毎年見続けてきた。健康そうで私は何も心配しておらず、先月の房総酒パーティーが開催された八剱八幡神社で木更津ばやしを終えた後に会話したことが最後になるとは想像すらできなかった。 まだ62歳である。早すぎる別れにあたり4年間の同僚として共に過ごした日々に感謝を申し上げ追悼のことばとしたい。 |